さまよえる前日鳥

読んだもの、観たものについての取り留めない覚え書き。ネタバレ注意。

『The Sense of an Ending』(終わりの感覚)ジュリアン・バーンズ

2011年ブッカー賞受賞。ジュアン・バーンズはこれ以前に既に3回同賞のショートリスト入りをしていて、本作でようやく受賞を果たした。

 

 

物語は主人公Tonyの一人称で、二部構成になっている。

 

第一部では、Tonyが青春時代の記憶を語る。高校時代の友人たち、特に真摯で煌めく知性を持つAdrianのこと、教師たちとの会話、大学時代のVeronicaとの恋と破局。繊細でちょっと不器用だった若き日々についての、ノスタルジックな思い出話だ。

 

第二部でTonyは初老を迎えており、結婚と友好的離婚を経て、娘と孫もいる。平凡だけれどまあそこそこ満足できる人生を送ってきた、と考えている。そんな彼の元に、昔の恋人Veronicaの母親が、500ポンドと旧友Adrianの日記を彼に遺したとの知らせが入る。40年前に一度会っただけの元恋人の母親が、何故そんなことをするのか。これをきっかけにTonyは自分の記憶と向き合うことになる。

 

 

 

ネタバレかつ長いです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Tonyが、若い頃にAdrianVeronicaに宛てて出した手紙の中身を読んだ瞬間、第一部で描かれた思い出話の信憑性がゼロになる。このひっくり返し方が見事だ。読者はそれまでの認識や印象を完全に改めることを迫られる。どうもTonyの言うことは印象操作されているようだ。彼は執念深くて嫌な奴かもしれない。Adrianに出したポストカードは自殺名所の写真だった。そう言えば、庭の木の件で相当しつこいメールを送り続けたようだし、Veronicaに対してもそうだ。Veronicaの思い通りにはさせまいとする意識も強い。とすると、Tonyが描くVeronicaの姿も信用出来なくなる。第一部で男を振り回す嫌な女、計算高い女のように描かれたが、それはTonyの自己正当化ではないのか。

 

もう一度読み返すと、第一部の、特に歴史についての問答が第二部で描かれる出来事と完全に呼応していることに気がつく。歴史(=個人の歴史でもある)は「記憶の不完全さと記録の不備が交わるところに生じる確信」「勝者の嘘」「敗者の自己欺瞞」(以上、私のざっくり訳)であるという定義、大きな歴史の流れに対して個人の責任はどこまで及ぶのかという問題。そしてRobsonの事件はそのまま後のAdrianの自殺に重なる。

 

最後にTonyが辿り着いた結論は衝撃的だ。色々なことがそれで説明できる。

 

ただ、読み終わっても何だか引っ掛かる、腑に落ちないところがあるのだ。Veronicaの、Tonyに対する現在進行形の怒りはどこから来るのか。Tonyの悪意ある手紙がAdrianSarahが関係するきっかけだとは言え、現在そこまで怒りをぶつけるのが腑に落ちない。そしてTonyを見た時のAdrian Jrの強い反応は何故なのか。そもそものきっかけを作り、呪詛した人物に対する本能的な反応だとTonyは解釈しているけど、あまり説得力がない気がする。

 

気になってgoodreads始め色々なフォーラムを覗いてみたら、様々な意見が入り乱れてカオス気味。やはりTonyの結論を疑う人も少なくなかった。あれこれ読んで考えて、私自身はAdrian JrTonySarahの子供であるという説に傾いている。以下そう考えた理由について。

 

Sarahの秘密めいた仕草、Veronicaと別れた後の手紙、Tonyに遺した日記とお金。Tony本人が言うような、一度会ったきりの関係とは思えない。それ以上のことがあったのではないか。彼女はロンドンに暮らしている時お金に困ってないのに間借人を受け入れていたというVeronicaの話からも、若い男たちに手を出す癖があったのだと思われる。

 

・上に書いた通り、他にはVeronicaの「今の」怒りを説明しようがない。Veronicaも、色々小出しにしてあなたには分からないとか言ってないでハッキリ言えばいいのに、と読んでいてイラッとしたのだけど、よく考えてみれば、これまで何とかやってきていて今更Tonyと関わりたくなかったけれど、あまりにしつこいし、もしかしたらと思ってAdrian Jrのところに連れて行ったけど、全く気づく気配もないからウンザリだ、という事ならちょっと納得できるかも。

 

・これも上に書いたけど、Adrian Jrの示したTonyへの強い反応。眼鏡を外してTonyとしっかり目を合わせた時にTonyの顔に自分自身を見て動揺したのではないだろうか。Tonyは彼を見てすぐにAdrianの息子だと分かったなどと言っているが、自己防御の思い込みではないのか。

 

Robsonが彼女の妊娠を知って自殺した件について、子供が彼の子でない可能性もあり得ることをAdrianが歴史の授業中に言及している。Robsonの自殺がAdrianの自殺と呼応していることを考えると、Adrian JrAdrianの子ではない可能性を示しているのではないか。

 

Tonyは究極の信頼できない語り手だ。自身で何度も繰り返しているように、自己防衛本能が高い。都合の悪いことは意識的/無意識に見ようとはしない。耐え難い記憶を無意識のうちに書き換え、忘却の彼方へ葬る。Sarahとの関係の記憶を葬り去ったとしても不思議はない。Adrian JrAdrianの息子だと「わかった」後もAdrian Jrのいる町に行ったのは、潜在意識では彼が自分の息子だと気づいているからではないのか。

 

・「Adrian JrAdrianSarahの子供だ」というTonyが導き出した結論も、結局はTonyがそう考えたというだけで、事実である保証は全くない。Tonyは他の人に良い印象を残したい旨発言しているし、「歴史家は当事者自身の説明をある程度疑ってかかる必要がある。将来を考えて行う発言は極めて疑わしい」(ざっくり訳)と歴史の教師は言っていたではないか。これはAdrianの遺書の伏線かも知れないけれど、Tonyのことでもあるのではないか。

 

 

そう言えば、Web上で登場人物の名前についての考察している読者がいた。Adrian JrVeronicaをセカンドネームのMaryの名で呼んでいて、自分の子でない子を育てた聖母マリアを思わせる、と。マリアの母はアンナだから、Tonyのアメリカ旅行中の恋人だというAnnieは実はVeronicaの母の事ではないか、という。そこまで記憶を書き換えられるか?とも思うけれど、それはそれで面白い考察だと思った。

 

こんなことをあれこれずっと考え続けて、まとめることができなくて、読んでから随分日が経ってしまった。考えすぎかも知れない。実際のところはTonyの結論通りなのかも知れない。記憶や老いや人生についての味わい深い言葉が散りばめられたこの小説について、「実は何があったのか」という側面についてばかり語るのもどうかと思う。とは言え、バーンズ自身もインタビューでこの小説はTonyが見出せない事、突き止められない記憶の穴についての話だと言っているので、その穴についてあれこれ考えを巡らすのもいいんじゃないだろうか。

 

正直にいうと気に入らない点がひとつある。障害のある人物をdamageの象徴とかcurseの皮肉な結果のように使うのは21世紀の作品としてちょっとどうかと思う。障害者を育てることで人生を狂わせ多大な自己犠牲を払ったかのように示唆するのも時代遅れだ。あくまで話者である初老のダメ主人公の物の見方だ、ということなのかもしれないがそれでもやはり引っ掛かる。