さまよえる前日鳥

読んだもの、観たものについての取り留めない覚え書き。ネタバレ注意。

『ヘヴン』 川上未映子

講談社文庫

 


「僕」は中学二年生。斜視で全てが二重に見え、うまく距離感がつかめない。クラスメイトからの酷いいじめに耐える日々を送っていた。ある日、筆箱の中に「わたしたちは仲間です」と書かれた手紙が入っているのを見つける。それはクラスでいじめられている女の子コジマからであった。二人は手紙を交換するようになり、少しずつ温かい友情が育まれていく。

 

 

 

ネタバレです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タイトルになっている「ヘヴン」は、コジマの好きな絵に彼女がつけたタイトルだ(多分シャガールの「誕生日」)。コジマによるとそれは、恋人たちがとても辛いことを乗り越えて、部屋で幸せにケーキを食べている絵だという。その絵を見にコジマと「僕」は夏休み初日に美術館へ行くが、結局二人でその絵を見ることはなかった。苦しみを乗り越えた先にある「ヘヴン」には、少なくともこの二人が一緒には、辿り着くことは出来ないということだ。

 

コジマは少しずつ思想を深め、殉教者めいてくる。悲しみや苦しみには必ず意味がある。これは試練であり、我々は耐えなくてはならない。それはいつか必ず報われる。自分の汚なさや「僕」の斜視はそういう試練を引き受ける者のしるしだ、と言う。その試練の先にある場所を象徴するのが「ヘヴン」なのだろう。だから僕が斜視を治療できる可能性を口にした時、それを裏切りだとしてコジマは怒り、去っていくのだ。

 

百瀬の長広舌はちょっと不自然な気もするけれど、コジマと対極をなす考え方を示している。この世で起きることに意味はなく、全てはたまたまだ。善悪などなく、ただ立場による解釈の違いがあるだけだ。全てはここにある。そして自分はそれを楽しんでいるのだ、という。これってちょっとニーチェの超人思想っぽい?コジマの思想はルサンチマンだし、と思ってネットめぐりしたら、やはりニーチェを引き合いに出している人が多かった。しかし百瀬の話は要約すると「既存の価値観なんてクソ喰らえ!俺はやりたいことをやりたいようにやるんだよ!」と言ってるだけ、とも言える。ニーチェって思春期と親和性が高いな。百瀬は体育を見学し、病院通いしているらしきところから、何らかの持病を抱えているようで、それが考え方に影響しているという設定なのか。

 

「僕」はこの二人の「思想」の間で揺れ動く、というよりどちらにも違和感を抱く。コジマのように理不尽に暴力を振るわれる状況を受け入れることなんてできないけれど、百瀬が言うように相手に暴力で返すこともできない。

 

物語の終盤、医者と義理の母親からのアドバイスで「僕」は斜視を治す手術を受け、長年諦めていた斜視は、いとも呆気なく治る。初めて両目で世界を見て、見慣れた並木道の、世界の全てのものの美しさに驚愕して涙を流す。世界には向こう側があった。二つの思想に引き裂かれ、何もできずにいた「僕」は、ここで自分の眼を持ったのだ。それは誰とも共有することのできない、彼だけの眼なのだ。

 

苦痛に満ちた学校生活の一方で、医者や義理の母親といった信頼できる大人がいることが救われる。中学の時は学校の世界が全てになりがちだけれど、一歩離れて見てみれば外に世界は広がっている。

 

ニーチェのこと色々読んでいたら、ニーチェが始め崇拝して後に批判するようになったワーグナーの、妻がコジマという名前だった。ワーグナーと決裂した後も妻コジマの事は讃えていて、恋していた説もあるようだ。とすると本作のコジマの名前はワーグナーの妻からだろう。カタカナで書かれているのはそういう訳か。

 

あと気になったのが、二ノ宮と百瀬はホモセクシャルの関係で、二ノ宮が追いかける方なんだろうけど、これは作品の中でどういう位置付けなんだろう。90年代頭の日本で人気者の高校生がゲイだったらやはり隠すだろうし(いや今でもか)そういった諸々が主人公への異様な暴力行為として吹き出ている、ということなのだろうか