さまよえる前日鳥

読んだもの、観たものについての取り留めない覚え書き。ネタバレ注意。

『Nineteen Eighty-Four』(1984 / 一九八四年)ジョージ・オーウェル

全くもってどうでもいいことだが、私は昔からジョージ・オーウェルとオーソン・ウェルズを混同しがちだった。共通するのは「オー」と「ウェル」の部分だけなのに、どっちが『1984』でどっちが『市民ケーン』なのか分からなくなるのだ。最近になって、ネット上の写真を見て顔を覚えたことで名前と顔が一致し、あまり間違えないようになった。

 

本作はディストピア小説の定番中の定番。日本語訳は、高橋和久さん訳の『一九八四年』がハヤカワepi文庫から、また田内志文さん訳の『1984』が角川文庫から出ている。ただ著作権が切れてる上に定期的に流行る作品なので、他にも紙でも電子でも色々なところから出てるんじゃないだろうか。英語版はやたらに色々出ている。

 

この作品を初めて読んだのは確か中学生の時だったが、内容はあまり覚えていない。ひたすら暗くてよくわからなかった印象だけが残っている。当時の私には早すぎたようだ。今年は出版75周年とのことで、この機会に思い立って読んでみたのだけれど、これがびっくりするほど面白かった。

 

主人公Winstonが、自分の愛情や記憶や意志とどう向き合い、それが人間の心理を把握しきった強大な権力と対峙してどう変化するのか、という物語がまず面白いし、党が構築しているシステムのディテールなども非常に読み応えがある。

 

中でも言葉のコントロールに関する部分が特に興味深かった。Newspeakに関する附録もよい。全体主義国家が言論統制するのは普通のことだけれど、辞書まで作って語彙の数や意味を減らしていくことで思考をコントロールするという考えに驚いた。言語と思考は切り離すことができないからね。裏を返せば、言葉には極めて大きな力があるということだ。

 

ディストピア小説は決して絵空事の物語ではないし、時代や場所を超えた普遍的なものを含有している。歴史を改竄する試みは常に行われているし、Web広告の仕組みやスマホの位置情報なんて監視社会と紙一重だ。本作に出てくる、詩や音楽、ポルノまで「創作」するVersificatorAIを思い起こさせる。読んだ後に自分の生きる世界を見渡して、少しゾッとするものなのだ。

 

これもどうでもいいことながら一つ告白すると、クライマックスの重要なところで不意に『動物のお医者さん』の二階堂を思い出してしまった。そのせいで自分の中で緊張感が減じてしまったことがちょっと悔しい

 

あと、娼婦が50歳は超えていたことをまるでホラーのように描くなんて、酷くないか?そういえば『何かが道をやってくる』でも50代の父親を年寄扱いしていたな。現在とは年齢の感覚が違うのか