前に読んだエルナン・ディアズの『Trust』に「bell jar」という言葉が出てきて本作を思い出し、ちょっと読みたくなったので再読。以前に読んだのは日本語で、たぶん青柳祐美子訳の『ベル・ジャー』(河出書房新社)だったと思う。それは絶版になったようだけれど、昨年、小澤身和子による新訳『ベル・ジャー』が晶文社から出版されている。
学業は常にオールA、賞も奨学金も欲しいまま、教師たちからも一目置かれる優等生のEsther。カレッジ在学中に女性誌のインターンに選ばれて夏休みにボストン郊外からニューヨークに出てくるが、そこで自分は井の中の蛙であったことを知る。Estherと同様に全米から集まってきた女の子たちは、お洒落で輝いていた。彼女たちに比べると自分は何だかパッとしない。その上インターンの仕事の方も行き詰っている。何がしたいかはっきりしていないことをボスに𠮟られる。編集者になるには複数言語知る必要があると言われるが、Estherは他の言語を学んでいない。さらに、インターンからもどったEstherを待ち受けていたのは夏のライティング・コース不採用の通知だった。
夫の死後、速記を教える仕事などで家計を支えてきたEstherの母親は、彼女が自分のように社会が求めるような女性の人生を送ることを暗に強要する。ボーイフレンドのBuddyもその母親も。でもEstherは、結婚して毎日の家事でくたくたになり、キッチンマットのように踏みつけられるような人生は嫌だと思う。誰かの言葉を記録する速記ではなく、自分自身の文章を書きたいと思う。
しかも男たちはまったくもって不誠実だ。Estherは純潔を守っていた一方でBuddyは隠れて他の女の子と寝ていた。男はそんなものだと人はいうが、なぜ男だと許されるのか。パーティーで知り合ったミソジニー男はEstherを強姦しようとする。最初の精神科の男医は患者であるEstherの話すら碌に聞こうとしない。
色々な可能性があった。結婚して子供を産み育て家族を築く人生、編集者として颯爽とNYの街を闊歩する人生、作家として成功する人生。どれも選べない、全て欲しいと考えているうちに、可能性がひとつひとつ萎んでいく。そして気がついたら何も残っていなかった。この葛藤をイチジクの実になぞらえて表現しているところ、とてもいい。
EstherがNYに滞在した夏の出来事や回想を描いた前半は、電気椅子での処刑やホルマリン漬けの胎児など、その後を暗示するような暗いイメージを喚起する描写も多いけれど、ユーモアも散りばめられていて楽しい部分もある。特にランチョンの席でEstherが好物のキャビアを狙っている様子なんかは妙に現実的で笑えるし、食中毒事件の詳しく徹底的な描写に感心する。
心を病んでいく様子とそこからの回復が描かれる後半では、Estherの鏡像とでも言うべきJoanがとても良かった。
50年代が舞台なこともあって、人種差別的な言葉やレズビアンへの偏見がさらっと出てくる。身体的な欠点を揶揄・侮蔑するような発言も少なくない。女性に対する社会的抑圧には鋭い視線を投げかけていながら、他の抑圧された人々に対しては鈍感なあたり、以前読んだときは気にならなかったけど、今読むとちょっと微妙な気持ちになることは否めない。ただ、そういったことも含めて全部さらけ出して描かれているからEstherという人物がとてもリアルに感じられる。
私の印象に残ったのはEstherが何度も浄化しよう生まれ変わろうとする様子だった。熱い湯船につかって心のドロドロを洗い流す、食中毒で体の中のものを吐ききって生まれ変わったような気分になる、買った服を全部窓から投げ捨てる、父親の墓で初めて感情を迸らせて泣く、信頼できる女医の電気ショック療法で自分を閉じ込めていたベル・ジャーが持ち上げられて新鮮な空気を吸う。作者のシルヴィア・プラス自身も、この物語を書いて全てを出し切ることで、新たに進んでいこうとしていたのかもしれない。