昨年から極めて地味に亀の歩みで進めている「今をときめくラテンアメリカ女性作家を読もう」キャンペーン、今回はメキシコの作家グアダルーペ・ネッテル。既に2021年に宇野和美氏の訳で日本語版も出ていて評判が良いようで、日本翻訳大賞の最終候補にもなった。
日本語版の装丁が素敵で羨ましい。私のスペイン語版は何故か広重の『鳴門の風波』が表紙絵になっている。
五つある作品は全て一人称。各作品は独立していて舞台となる場所も様々だが、どの作品も登場人物の言動が何らかの生き物とシンクロしていることが共通している。登場人物達の抱える問題や悩みは夫婦仲とか不倫とか非常に現実的で、そこに上手く動物の行動を絡めたところが個性的で独自の雰囲気を出している。文章は淡々としていて分かりやすく、特に凝った言い回しもなく読み易いと思う。
以下各短編の感想を。ネタバレです。
El matrimonio de los peces rojos(赤い魚の夫婦)
妊娠、出産、育児を通して少しずつ心が離れていく夫婦。妻は自分達の姿を魚に投影させる。種々のエピソードが育児あるあるで、うぐっ…となる。
それにしても、これから子供が生まれる夫婦に闘魚のペアを贈る友人ってどういうことよ…と思ったけど、周りからはそういうカップルだと思われていたのかも知れない。二人が別れたことに周りは驚かなかったようだし、出産時の看護師達の言葉からも二人のピリピリした様子がうかがえる。
Guerra en los basureros(ゴミ箱の中の戦争)
伯母の家に預けられた主人公の少年。それまでの荒れた生活とは全く異なる中流家庭の伯母一家に馴染まず、家政婦母娘の近くの部屋にこもり、人気のない時間にひっそりと台所で食べ物を漁る。その姿は何かの生き物に似ていないだろうか?─そう、ゴキブリだ。少年は夜の台所でゴキブリに出くわし、同類嫌悪の故かそれを踏み潰して殺してしまう。かくしてゴキと人間の壮絶な戦いの火蓋が切って落とされた。戦いを通して少年は伯母一家と一致団結するようになる。
しかし再会した母の姿を見て少年は気付く、自分が本当に属しているのは伯母一家ではないのだと。言ってみれば彼はClemenciaと同じくゴキ側の人間だったのだ。
家政婦のIsabelが頼もしくて惚れる。しかしGのセ、セビーチェ…ひぃぃ。
Felina(牝猫)
この本のエピグラフにある大プリニウスの言葉をまんま地で行く物語。人間以外の動物は何をすべきか知っている。
主人公は、発情期を迎えてホルモンに支配され、それまでの優美さを失った牝猫に困惑して憐れむが、本当に憐れむべきは人間の方ではないのか。猫は発情、妊娠、出産、子育てと、自分のやるべき事を心得て粛々と判断して行動する。一方で主人公は思いがけず妊娠し、長い間迷った末に子供を産む事に決めるが、転倒事故で流産する。彼女は自問する。階段で転んだのは事故かそれとも潜在意識が引き起こしたことなのか。今子供を持つのは困る、でも中絶したくない。決められない、やっと決めても心のどこかで他の選択肢が引っかかり続ける。でも、それこそが人間らしさなのかも知れない。嗚呼、我ら人間どもの哀しさよ。
それにしても避妊は大事。
Hongos(菌類)
最初はよくある不倫だった。ひと夏の恋のはずが、どうしても忘れられずに再会して関係を続けた ─それもよくあることだ。そのうち二人して性器に真菌感染 ─ うん、まあそれもあるだろう。私の体に住み着いてて愛着湧くし、彼との繋がりを感じるから真菌ちゃんのお世話をしよう ─ え゙…?
主人公が菌と同化して文の主語が「私たち」になり、菌が宿主に寄生するように主人公は愛人に寄生する。どんどん倒錯的になっていってコワイヨー。
ドン引きするけれど、不気味でとても面白い作品だ。
La serpiente de Beijín(北京の蛇)
他の作品と少し違う印象を受けたのは、生き物とオーバーラップするのが主人公ではないからだろうか。幸せな家族であり続ける筈だったのに、父が北京で出会った「蛇」が全てを変えてしまった。母にとっての蛇は悪魔的であり、父にとっては生命であった。登場人物がみな深い哀しみを抱えることになって切ない。