さまよえる前日鳥

読んだもの、観たものについての取り留めない覚え書き。ネタバレ注意。

『Wolf Hall』(ウルフ・ホール)ヒラリー・マンテル

 

✴︎ネタバレ注意!

 

2009年のブッカー賞と全米批評家協会賞を受賞してBBCのドラマにもなった。更にガーディアン紙が選ぶ「21世紀の100冊」で堂々の第一位に輝く。まあ21世紀はまだ始まったばかりだから相当気の早いリストだけど。

 

舞台は16世紀イングランド、テューダー朝ヘンリー8世の治世。テューダー朝は、6回結婚したヘンリー8世や1000日女王アン・ブーリン、殉教者トマス・モアにブラディ・メアリー、イングランド黄金期を築いたエリザベス1世などなど魅力的(強烈)なキャラクターが揃っており、何度も映画やドラマ、小説、オペラなどの題材になっている。『ウルフ・ホール』はまさにこの時代、ヘンリー8世の最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚とアン・ブーリンとの結婚、それに伴うローマカトリックからの離反と英国国教会の設立、そしてそれを受け入れなかったトマス・モアの処刑を描いている。既に何度も語られ手垢のついた話だけれど、ヒラリー・マンテルはこれまで端役か悪役として描かれていたトマス・クロムウェルを中心に据え、彼の目線で新しいテューダー朝小説を作り上げた。

 

三人称でクロムウェルの一元視点、時制は現在形。現在形の小説は珍しくないけれど、大河歴史小説ということで無意識のうちに過去形を想定していたので少し面食らう。複数の登場人物がいる時に代名詞heが誰を指しているのか分かりにくい時があって、文章の流れからheはこの人物だろうと判断して読み進めていくと矛盾が出できて???となって戻って読み返すという事が何回かあった。でも読んでいくうちにそういうheはクロムウェルを指すという事が分かってくる。フラッシュバックが多くて過去と現在の様々な場所を行き来するし、本筋とは別の話題に脱線する事もよくあって最初は若干戸惑うけれど、慣れてくるとそれも面白い。歴史小説と言っても全体的に状況説明が少ない一方で、日常生活や情景の描写とか会話とかが多く、現在時制の効果が良く出ていて、まるで実際にクロムウェルの生活を一緒に体験しているような気分になる。私は勝手にこれをイマーシブ小説と名付けたよ。

 

視点がクロムウェルに寄り添っている分、彼が表情一つ変えずに心の中で皮肉ったり鋭い突っ込みを入れたりしているのが分かるけれど、全てが描かれている訳ではなく、肝心の心の奥底ははぐらされている感じ。感情を露わにする事は稀で、本人や周りの人達のちょっとした言動から推し測るしかない。

 

ちなみにマンテルのインタビューによると、語り手はクロムウェルの肩のあたりから見ていてほぼ重なり合っているイメージなので、「クロムウェルは…」と書くと少し距離があるところにいる感じになってしまってしっくりこない、だからheでないといけない。それによって分かりにくくなってしまうのがコストだと。それから、場面が直ぐに切り替わったりフラッシュバックがあったりする、人の記憶のような小説にしたかったとも言っている。

 

クロムウェルは、父として慕っていた(であろう)ウルジー枢機卿を死に追いやった張本人アン・ブーリンとその一族の望みを実現すべく働いたけれど、それは何故なのか。勿論何よりも自分(と家族・召使い達)の身を守る為なのだろう。ウルジー卿という後楯を失ったし、アン・ブーリンの望みは国王の望みでもあるのだから。でもそれだけではない。彼の目はイングランドの来るべき未来を見据えている。戴冠式で跪く身重のアン・ブーリン。彼女に世継ぎ男子が生まれれば王朝が安定する。教皇の指示下から抜け出せれば国内修道院を編成し直して財産を国庫に入れられる。国の発展の為には戦争ではなく商業を活発にし、収入を増やすことが必要だ。更に、聖書を母国語で読めるようになれば聖職者を経なくても民が神の教えに直接アクセス出来るようになる。

 

それにしてもマンテルの描くクロムウェルは魅力的だ。若い時は暴力の只中で生きていたけれど、故郷から逃げ出してヨーロッパ各地で軍事・金融・商業の経験を積んでイングランドに戻って来る。他言語を話し多才で鋭敏、実務能力が極めて高く合理的精神を持っている。強面だけれど家族や側近、召使い達を大切にしていて人情がある。ちょっと魅力的すぎるんじゃないの!?と思うけど、近世イングランドで鍛冶屋の息子が大出世を成し遂げるには余程の人物でなきゃ無理だよな、とも思う。

 

この小説はメインの物語の他にも色々興味深い事に言及している。特に記憶術に関する話が面白い。クロムウェルはイタリアでシモニデスの記憶術を学び、それを自分なりにアレンジして使っていて、ジュリオ・カミッロの「記憶の劇場」というものにも興味を持っていた。それから「近代会計学の父」と呼ばれるルカ・パチョーリの著書『スムマ』をクロムウェルは賞賛していて、帳簿会計に関する美学(?)を口にしている。こういう風に枝葉の豊かな小説を読むのは楽しい。途中でネットで調べたりして読むのに時間がかかるけれど。

 

次の『Bring Up the Bodies』を読むのが楽しみだ。